昭和48年05月18日 朝の御理解
御理解 立教神伝
「此の方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が世間になんぼうも難儀な氏子あり。取次ぎ助けてやってくれい。神も助かり氏子も立ち行く。氏子あっての神、神あっての氏子。繁盛いたし。末々親にかかり子にかかりあいよかけよで立ち行く。」
私はこの立教神伝というものは、神さまの願いというものが、この様に金光大神への願い。それは前般のところだと思いますね。肥灰差し止めるから、そのほう承知してくれと。本当にまあ言わばきびしいこと。家内も後家になったと思うてくれと。おまえも病気でもう、死んだと思うて欲をはなして神を助けてくれと言うのですから。前半の所は天地金乃神様が、金光大神にお頼みのご様子です。今私が読みました所はここの所が神様の願いであるわけなんです。
神様の願いはここの所にある訳なんです。「おまえのように実意丁寧な神信心をしておる者が、どうか世間になんぼうも難儀な氏子がおるから、ひとつ取り次ぎ助けてやってくれんか。」と。氏子が助かると言う事は、所謂神も助かる事である。氏子も立ち行く。氏子あっての神、神あっての氏子と。氏子繁盛いたし末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く。だからここの所でまた一番大切な所はどこかと言うと。
「氏子繁盛いたし、末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く」と言う所が、又愈々大事と言う事になるのです。ただ「難儀な氏子あり。取次ぎ助けてやってくれ。」と。と言うて只取次ぎによって病気が治ったとか、思いが叶うたとかという助かりだけではなくて、その助かりが愈々「氏子繁盛いたす事になり。」ね。しかもその繁盛。繁盛と言う事はおかげを頂いてという意味なんです。
その頂いて言うならば、力を頂いてと言う事なんです。財力なら財力と言う力を頂いて「末々親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く。」と。だから立教神伝の大事な所を、又生粋の大事な所と言うなら、この所だと思う。是が神様の願い、ご自身も助かりたい。氏子も繁盛いたしと言う事は力を受ける。例えば百万長者になると言う事は、百万長者としての力を受ける事でしょう。だからここは力を受けると言う事。その力をもって「神を助けてくれんか」と言う事。
親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行くと言う事。ですからどうでも皆さんが矢張りおかげを受けなきゃいけん。ほんとにあの力を受けなきゃいけんです。もうひとりひとりが本当の意味において、100万長者の徳を受けなきゃいけんです。なにも出来ん100万長者、億万長者でしょうねえ。だだ今日おくりあわせを頂いた。今日ただ・・・、同じ所がどうどう廻りであったんでは繁盛ではない。今年よりも来年というふうに、繁盛していってこそ、大きくなっていってこそ、力を頂いてこそ繁盛である。
所謂「氏子繁盛いたし」とは、そう言う事だと思う。きのうある方が改まってお礼に出て見えられた。もう10日も前だったでしょうか、大変におかげを頂きまして、もう本当に神様のおかげなればこそというおかげを頂いて、心に決められた。「どうでも少し、纏ったお金のお供えをしたいと思いますが、どう言う様な心掛けでお供えをさせて頂いたらよかろうか。」と言う事であった。
どうというてそりゃもう、皆さんが毎日お供えをなさる。それがただもう、まるきり入場券ばし買うごたる気持ちでお供えをしたっちゃいかんもん。それはどんなに些細であろうが、沢山であろうが、内容は同じこと。所謂「喜びと慎みを添えて」である。本当に「こげん沢山お供えができる」と言うのでもいけないし、又はほんとうに「この様な事では相すみませんけれども」と言った様なもの。もうこの神様はね、受けて下さると言う事はそれこそ真心があればと仰る。
庭のちり葉でも受けて下さるし、それでおかげを下さる。それかと言うて沢山なら「そげんはいらん」と仰る神様じゃない。もう限りがない。私がまだ修行の時分でしたが、宅祭をさせて頂くのにお金がない。それでお取次ぎを頂いて、まあそのときはぼちぼち商売させて貰いよったから、まあ商売もぼちぼちの所でした。そしてその利益でお祭りをさせてもらおうと思うて、一生懸命お願いをするけれども、思うように商いができん。商品は少し売っておりました。その商品を久留米に。
勿論闇の商品。闇の繊維でしたけれども売れん。そうすると私はもうここと思うて見当をつけて行って、売れないなら、また教会に寄る。いわゆる久留米の教会に。それこそ一日のうちにやはり、そのときに5回くらいお参りしました。もうとうとうがっせんがなければ、お賽銭がなくなってしまった。ね、初めはお初穂をした。二度目もお初穂をした。けれども、三度目位からはお初穂だけ、お賽銭だけでお参りをした。
もう五度目にはね、お賽銭がない。がっせんのなかにこう手を入れた所が、あの時分には商品を買いますと、証紙というのが、切手のようなのが渡され寄よりましたよね。その証紙が一枚入ってた。だから、私はその証紙を出して。もうそれこそ庭のちり葉でもと仰るのですから。どうぞ、あいすまん事でございますけれどもと、ほんとに押し頂いて、それをお賽銭箱に入れようとした時にです。
私の心の中にね頂いた事が。「例えば百円のお賽銭ができるようなおかげを頂いたときでも、この心持を忘れるなというお知らせを頂いた。その時分の百円といえば、たいした百円ですからね。だからその時分私は、百円のお供えをするときはお賽銭箱。十円のお初穂させて貰う時には、十円紙幣というのがありましたからね。をお初穂としたようなそういう生き方でいった時分すらある位です。沢山のお金はお賽銭箱にあげて。これはね信心をさせて頂く者の、所謂稽古のコツです。
目に見えないところを大事にすると言うとはそういうことなんです。そしてその最後の証紙をお供えして、もうその事頂いてもう有難いやら、勿体無いやらでまた、また次の所にやらせて頂いたら、瞬く間に商いができて言わば、翌日に控えておる宅祭ができたと言う様な事でございました。やっぱりね一回願ったくらいじゃいかんです。もう押して押して押しまくっていかにゃいかんです。この神様は。一にも押し二にも押し。そして段々だんだん、本当の真心が出てくるのですからね。
例えば証紙一枚でも、神様はそれこそ、百円もお供えしたように、受けて下さったんじゃないかとこう思うんです。その方の場合はそれとは反対。私は思うんですけれどね。皆さん、例えて言うなら十万の利益があって、一万円お供えするのは楽でしょうが。百万円儲かって、十万円お供えするのは楽でしょうが。決して神様は十万お供えしろ、百万お供えしろとおっしゃる神様じゃない。けれども一千万もそこに儲かれば、百万くらいはそれこそありがたいでしょうが。
私は今日「氏子繁盛いたし」と言う事は、そう言う事だと思うんですよ。それがもう次のおかげを頂く、おかげの元を作っていくです。もう例えて言うなら、どがしこ儲かったっちゃ、お酒一本ちゅうごたる人もあります。もうお酒一本お供えしたら、特別なお供えしたごと思うとる人があります。そう言う事では、繁盛にならん。言うならば、神も助かるということにならないでしょう。
教会が潤うと言う事は神が助かると言う事なんですよ。ですから自分どんが持っとるとも、腹の痛むようなものじゃなくてお願いをして、それこそ一生懸命のお願いをして、今まで一万円しか儲からなかったのが、十万儲かるようなおかげを頂くと言う事が繁盛です。しかもその儲かったその繁盛のおかげの中から、十万儲かったんですから、例えて言うなら、五万でちゃまあだまあだ五万も儲かっとると言う事に、いわばなるわけですよ。ですから繁盛してです。繁盛するおかげを頂いて。
私は神も助かると言う所の精神のある人でなからなければ、ほんとうの金光教でいう、天地の親神様が金光大神に頼んでおられる、願いとしておられる所の、「親にかかり子に掛りあいよかけよで立ち行くというおかげになってこないと思う。もう十日もその前だったでしょうか、今申します方が、そういうお届けをされましてから、私が申しました。「そりゃあ、早うお供えするがよかですばい。」と言うてから。(笑)もうそげな事はさらさら思わなかった。本当にそうなんです。
例えばそれだけお供えされりゃあ、ちょっと教会が潤うくらいにある。けれどもそげなことは全然問題じゃないです。問題はその人がそうしておかげを頂いたら、それがまた、おかげのもとにならなければならないから、この人も純真な、言うなら、「慎みと真心を添えて」お供えができる。私もそれをそんなら百円のお供えができる人とも、同じ気持ちで淡々として、お取次ぎができると言う事で、なからにゃいけないと思う。
だからねもう私はこれだけのお供えができたと言った様な気持ちが不浄になるのだから、とにかく慎みと喜びの心が湧くまで待ちなさいと、私は申しました。そしてもう十何日間。そして、昨日お礼に出てきてあるとです。「親先生もう、ほんとにもう、それはそれは、一分一厘神様の間違いのないのに、驚きました。」と言う。銀行にお金を取りに行きました。そしたら一流銀行ですから、大きな銀行ですから、例えばよその銀行の帯封のある金どん、下げる様な事のない銀行です。
ところが、私が下げさせていただいたその二束だけが、佐賀銀行と書いてあった。もう、親先生が「喜びと慎みを添えて」とおっしゃったが、これは、とてもとても私がお供えしよるとじゃない、合楽の神様のおかげでお供えができよると思うたら、ありがとうなったというて、その足でお供えを持ってきた。佐賀といやあ、にんべん(イ)にさ(左)というのは、もう合楽の信心と言われておる。
賀という字は「和賀心」の賀であり、喜びである。所謂合楽的信心の喜びを是に添えて、お供えができると思うたら有難うて、もう今日こそがお供えする時だと思うて、お供えさせて頂くというのです。私はそういう生き方がです。親にかかり子にかかりと言う事じゃないでしょうか。そんなら自分のある財産の中から、がばぁっと減らすというのじゃあない。繁盛してなんです。言うなら繁盛してからでも、おかげを頂いてからでもです。それに、例えば慢心がついちゃあならん、高慢な心があっちゃあならん。
それに慎みと喜びが添えてお供えができると言う事。それがいわば神様の「神も助かり氏子も立ち行く」と言う事になると言う事。あいよかけよ。親にかかり子にかかりと言う事はそう言う事じゃあないでしょうか。ね。私どもが愈々繁盛のおかげを頂く為に、それこそ「ひとりでにものができるようなものであろうぞい」と言われるほどしの、おかげを頂く為に、心の田地を愈々肥やさなければならない。
昨日は合楽会でしたが、野口さんが先日綾部さん所のお祭りにお参りした帰りに、石井清さんの車に便乗させて貰いなさった。そして行き戻りあの人のお話を聞いて大変おかげを頂いたという話を、夕べ発表しておられました。その中に帰り道にです。桜井先生がどっか乗りそこのうとんなさるごたるからと言うて、駅の所まで行きなさった。自動車をあちらへまわした。
所がもうすでにおられなかったというのです。そして降りて探しに行ったときに、そのお菓子が目についた。だからお菓子を二袋買ってきて、自分達が頂き、又後ろに三、四人から乗せておりますから、その人達も一袋というて、お菓子を一袋づつ買うていかれた。そして、どうぞ退屈せんように、車の中であがって下さいとこう言う訳なんです。どうしてそう言う事をするかというと、清さんが言うたそうです。桜井先生を乗せて差し上げたいとか、という気持ちで行ったんだから。
いわゆる心が神様に向こうて行ったんだから、駅まで行って無駄のある事はないと思うた。無駄のある事はないと思うて、降りたらお菓子が目についた。ああこれは神様がお菓子を買うて、後ろに乗っておるお客さんたちにあげなきゃいけんとばいなと思うて、買うてきたとこう言うのです。私はねおかげを頂くコツです是は。私共がする事なす事の中に、心が信心にむかって行っておる時にはです。例えばもうそれこそ、なんともうしましょうかね、おかげの漏りようがない。
駅まで行ったしかもそれは桜井先生を乗せたいと思うて行った。けれどももう桜井先生はおられなかった。それだったら無駄でしょう。けれどもここに降りたが最後です。なにかここに、神様が下さるものがあると思う。無駄がある筈はないと思うたら、なんとかしきりにそのお菓子が目に付いたと言う。勿論それは自分で買わんなんとじゃから損することじゃ。しかも乗せた上おひゅぎんまでやらんならんとじゃん。
と言う様な事で、普通で言うならばからしい話じゃけれども、清さんの信心のすばらしいところはここです。先程私がならおかげを頂くコツと言った様な事を、私が5回もお参りさせて頂いた話をさせて頂いたようにです。ね、コツです。ね、無駄のあるはずはないというこの確信ですよ。こと心が神様にむかっておる事なら。自動車の中で色々話した。私も本当に今、今日までは一切を喜んで受ける事が出来たけれども、明日からいや今からです。果たして受けるか受けられないかは解らない。
神様のどういう問題を出して下さるかは解らない。だからいつも絶えずその心がけをしておかんと、受け損なうとこう言う。皆さん例えば難儀とか、困った事と言うけれども、あれはもうみんな天地の親神様が、私共に磨き粉をふりかけよんなさるときですけんね。それで、磨かんならばからしかと言うたと言う。難儀な事というのはね。あれは神様がね、磨き粉を振りかけござるとき。それをああ汚ないとそれを払いのけよる。
清さんがひとりでに物が出来るようなおかげを頂くと言う事は、そういうものをもっておる。帰りがけに行き戻り乗せてもろうたからといって、あちらのお子さんに果物なっとんことづけようというてから、バナナを買うてからことづけた。そしたらもう困った困ったと。今日はおかげを頂いたと思うたら、こげなものばやんなさんなら、かえってそれをお返ししたようなことになる。と言うて。これは勿論笑いながらですけれども、それは本心なんです。実を言うたら彼の。
そこに、私は清さんの信心があると思うんですよ。だからそこにひとりでに物が出来る様なおかげを頂くわけですけれども、その頂いたおかげでです。頂いたそのおかげをもって、神も助かりという所へです。親も立ち行くという所に、焦点を置く事によって、徳が受けられると私は申しとりますが、いわゆる金光大神を通して、天地金乃神さまの願いは、そこのところを願っておられる。清さんあたりがそこの所ができられたら、本当に徳をうけられるだろうと思うですね。
一人でに物が出来る様になるというだけの所ですまだ。それでもそこに徹しておる。今日のこのご理解・・・・、ね。氏子繁盛いたしという。一人でにものが出来る様なおかげをいただいて、その繁盛がまた、繁盛を呼ぶ様なおかげを頂く為に、神も助かりというような生き方にならなければいけないと言うのです。それよりはそんなら千円よりも、万円、万円よりも十万百万いやもっと沢山でも、どんどんご用ができるようなおかげを頂きたい。それが繁盛だと言う。
そういういうならおかげを頂く為には、清さんのような生き方あり方を本気で。ひとりでにものが出来る様な信心をを徹して、頂かせて頂かなければいかない。磨き粉を振りかけてくださるときには、「ああ、汚い。」というて、振りほどく様な事では出来ん。けれども是は矢張り難しい事だと清さんも言ったそうです。だからいつ失敗するかわからん。だからいつも心を神様に向けとかなきゃならない。神様の働きに無駄のある事はないと。場合にはそれは損する様な事であっても、それを生かしておると言う事。
その駅の前で下車したと言う事を生かしておるわけです。無駄がないと言う事。そういう例えば、生き方を身につけながら、ひとりでにものが出来る様な繁盛のおかげを頂いて、その繁盛がまた繁盛を呼ぶようなおかげを頂く為にです。私共は真実の御用天地金乃神様の願い、成就の事の為に、奉仕出来る様な、おかげを頂いた時に、始めて「親にかかり子にかかり」であり「神も助かり氏子も立ち行く」というおかげになる。
立教神伝の一番大事な所は、ここの所を、私どもが身につけて行く事だと言う事をです。今日は清さんの例をもちました。昨日お取次ぎさせて頂いた、その佐賀銀行の佐賀。そのほんとにお礼をさせて貰わねばならないというその心に、又一段とです。成程自分がするとじゃない、神様がさせて下さるという喜びを持ってです。お供えができられた方のお話を聞いて頂いて、そこをみなさんに解って頂きたいと思うのです。
どうぞ。